「ゆれる」

広島は今日が公開初日。評判の高さやオダギリジョー効果もあいまって、シネツイン1は人の山でした。この続きは若干ネタばれを含むので続きを読む記法で。
さて、本編ですが非常に見応えのある映画でした。オダギリジョー(弟・猛)の比類なき色気、香川照之(兄・稔)の迫真の演技は必見です。しかしながらあの衝撃的なラスト、一緒に見に行った相方と意見が分かれてしまいました。
個人的には兄・稔に感情移入してしまいました。真面目な人間は真面目だから真面目にしか生きられません。でも真面目な人間は心のどこかで「自分ばかりが損をしている」と思っています。故に要領ばかり良い人間をよく思いません。しかし、そう思うならば自分も上手に立ち回ればいいという気もしますが、それができないのが真面目な人間です。恐らく、「要領ばかり良い人間をよく思わない」=「自分はそうはなりたくはないが、幾分かの嫉妬は感じている」ということなのです。何故そう思うか、自分がそっち側の人間だからです。
作品は猛の視点から描かれていたため、猛の気持ちのゆれや記憶のゆれがクローズアップされていましたが、実際には皆それぞれの気持ちや記憶がゆれていたと思います。対照的な兄弟に一人の女性が絡んだことで起こってしまった悲劇。自分の無実を証明するために数々の陳述を重ねながらも、恐らく稔は彼女の死に対する罪悪感を抱き続けていたと思います。だからこそ、穏やかな表情で*1弟・猛の事実とは異なる証言を聞き入れたのだと思います。どこまでも真面目な男です。
最後のあのシーン、私は稔はバスに乗ったと思います。恐らく稔は心のどこかで猛を恨み、心のどこかで猛を許し、心のどこかで猛が来てくれたことに喜びながらバスに乗ったと思います。自分の感情を殺して何年も働き続け、ついには罪人となってしまった稔が、猛と一緒にあのガソリンスタンドに帰ることが幸せだとは到底思えません。皮肉にもあんな形にはなってしまったけど、猛の手によって稔はやっと解放され、二人は離ればなれになったけど兄弟に戻ることができた、そう思いました。

*1:その表情もそれはそれで怖いのですが…。